ふくしまこどもクリニック
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30億塩基対

 お世話になった小児科主任教授が退官され、新天地に赴かれることになった。先日、大学同門会恒例の新年会でその旨の発表があった。
 任期を十分に残した時期のご決断であったので、皆は大いに驚いた。



 ちょうど六年前の新年会。法善寺横丁の料理店で、そろそろお開き、というときに、ほろ酔い加減の教授が大きな声でテーブル越しに僕に声を掛けた。
 僕は、勉強がキライで、生来面倒くさがり屋。大学卒業後、大学院には進まず、臨床べったりで凡そ医学研究には縁遠かったのであるが、そんなデキの悪い僕に、学位取得を提案してくださった。
 
 大学の十年先輩の現教授は、臨床もよくできるが研究はもっとできる、という方で、ことあるごとに、研究せぇ、研究せぇ、研究せなアカンぞぉ、と耳元や廊下越しに仰り続けた。
 臨床報告で僕が初めて論文を書いた時には、その面倒を見てくれたものだ。当時、パソコンは自由自在に動く時代ではなく、赤ペン入れまくってもはや原型を留めない僕の原稿を返してきて、やっとひとつできたなー、もっと書けよー、と細い目で笑ってくれた。
 研究の真似事をしている僕の手つきを見て、お前、そんな不器用な手ぇやったら、女の子にもてへんぞ?!などと茶目っ気もたっぷりで、僕を含めて皆が大笑いしていた時代。

 あ。なんだか追悼文みたいになってきたけど、教授はめっちゃ元気です。念のため。

 閑話休題。
 アメリカNashvilleのVanderbilt大学に留学され、帰国されてからはますます研究に打ち込まれ、前教授の吉岡先生とともに小児腎臓分野研究のトップを文字通り快走された。
 僕が、東京都立清瀬小児病院に出向し、日本中の研究者とお話しする機会があった際には、近大、っていうことは、吉岡先生と竹村先生がおられて、羨ましいですよねー、などと幾度となく言われて、なんだかこそばゆい気分になったものだ。
 その後、僕は医局を離れることになるのだが、吉岡先生が思わぬ病で倒れられた際には、若くして主任教授に就任され、ぐいぐい教室を引っ張った。アイデアは、出す手出す手が爆発的で、どこから発想が湧いてくるのだろうと感心するやら呆れるやら、であった。人懐っこいタイプだが、芯は熱盛で、大学運営に関しては、ご自身の主張を強く表現し、ときどきぷんぷん怒っていた。
 あ。また追悼文みたいになってきたけど、もういちど言うけど、お元気です、念のため。

☆ ☆

 今回、論文に必要があり、人体発生学の教科書を買った。
 「Langman人体発生学」という、医学生のバイブルみたいな本であるが、内容を見て驚いた。三十年前の記載とはまさに隔世の感があり、遺伝子学的記載が溢れていた。
 僕が学生時代に基礎医学を学んでいたちょうどその頃が、遺伝子学的研究の黎明期であり、DNA探索の手法開発が進み始めた時代である。
 1953年、ワトソンとクリックがDNA二重らせん構造を発見し、ノーベル賞を受賞したのが1962年。それから二十数年を経て、PCR法という手法が開発され、そののち耐熱性の反応酵素が利用されるようになり、そこから一気に遺伝子研究が加速した。
 ヒトの遺伝子は、約30億塩基対から成るらしいが、1から30億まで、いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち、くぅ、じゅう、じゅういち、じゅうにぃ、と数えるだけで、おーい、ビール持ってきてー、と言ってまた叱られるくらいであるのに、さっき3回も計算し直したけど、一秒間にいち、数えていくと、30億まで数えるのには何日かかると思う?
 正解は、34,722日と少し。年でいうと95年かかるのだよ。

 そんな遠大な深遠な遺伝子を相手にした今回の論文、こうやって寄り道していたらなかなか進まない。

 ねじり鉢巻きで唸っていると、言語学の卒論執筆中の長男が冷やかしに来て、お?PCRやん。プライマーがどうたらこうたら、耐熱性DNAポリメラーゼがどうたらこうたら言うやつやろ?Sanger法や。

 へ?お前、なんでそんなこと知ってるん?と尋ねると、へ?高校生物で習ったやろ?「チャート式」に載ってる。と言われた。

 時代の流れと時間の流れは、ほんの一瞬なんだなー、と感慨深いある夏の休日であった。

☆ ☆ ☆

 クリスマスが過ぎ、学位論文発表会が終わって脱力していると、教授が笑いながら、キンチョーしてたなぁ、ガチガチやったやんか?お疲れさん。今日は酒飲んでええぞ、と飲酒許可をくれた。
 キンチョーなどというデリケートなものとは無縁の僕だが、キンチョーしていたとしたら理由はひとつ。
 先生がこの春で辞められる、って聞いてたので、まさか発表に失敗して、最後に先生に恥かかせられない、って思ってたからね。子の心親知らず、やな。
 その夜、僕は数か月ぶりに美味しいお酒を呑んだ。この数か月間は美味しくないエチルアルコールを飲んでいたけど。

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