ふくしまこどもクリニック
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☆ウロコをどうやっておとすか?

 毎回毎回、診察室に入るなり泣き叫んで診察どころではなかったこどもが、ある日から突然に泣かなくなり、家族や診察担当チームを驚かせることがあります。

 この場合、目から鱗が落ちたのかな、などとみんなで不思議がるのですが、この「目からウロコ」、語源をご存じでしょうか。

 予想としては、なんだか中国七千年の故事に由来するような感じがしますが、実はその語源はキリスト教にあるといいます。

 「目から鱗が落ちる」

 キリスト教の本部があるイタリア語で言うと、こうですね。

 「Le squame cadono dagli occhi

 落ちる、とocchiは無関係です。たぶん。むしろ、目、と関係しそうです。たぶん。

 新約聖書使徒行伝918節にそれは示されています。

 サウロは、ユダヤ教の教師であり、キリスト教徒迫害の中心人物のひとりでした。ある旅の途中、キリストの霊に遭遇した彼は、強い光により視力を失います。イエスはキリスト教徒のアナニヤに、サウロを助けるようにと指示します。アナニヤがサウロの上に手をおくと、たちどころにサウロの目から鱗のようなものが脱(お)ちて、元通り見えるようになったというのです。サウロは回心し、キリスト布教活動に生涯を捧げ、紀元60年代にローマで殉教することになります。パウロのことですね。

 これが「目から鱗が落ちる」の語源とされます。

 さて、この「鱗」、正体は一体何なのでしょうか?

 使徒行伝では、「鱗のようなものが脱ち」、とされているようですから、今日私たちが認識している「鱗」ではないようです。でないと、サウロはダマスコへ向かう途上、川遊びで魚と戯れていた際にその鱗が目に入り負傷し、眼瞼結膜上皮の細胞回転により異物排出が起きた現象を記したものとなります。同章には、3日間視力を失った、とありますから、医学的にみてもこれは妥当なセンとなり、それでは新約聖書が医学書になってしまいます。この場合、淡水魚の鱗となるでしょう。

 小児発達学的には、泣き叫ばなくなった彼らの目から脱れた鱗のあとに現れたものは、「社会発達の獲得の萌出」です。よく言われる、「成長したな」の「成長」に相当します。

 人見知り時期に他者(小児医療機関では小児科医や看護師等)により生じさせられた恐怖感-聴診や触診や口腔内所見のためのあーんや採血点滴、予防接種-、それはそれはこどもにとって大変な抑圧です。当方としても、できることであれば奴らと良好な関係を築き、まいにちでもクリニックに遊びに行きたいと泣いてせがんでほしいものですが、医療費抑制が叫ばれる昨今、そういうわけにもいきません。必要な時にはクリニックにご機嫌よく来てほしいものですが、おおよそ一段階目はクリニック入口付近、二段階目は診察室入口ドア付近を結界域として、突然に恐怖の大王が彼らに舞い降りてきます。

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 素晴らしい教科書や児童発達専門書には受診の必要性云々をこどもたちに少しずつでも伝えるよう記されていますが、大王が舞い降りてきた後では最早手遅れです。それはご自宅での普段の取り組みの蓄積がモノを言うことになります。よく、「来院前には納得していたでしょ!?」とおこさまを叱る方がいますが、そういうのを付け焼刃、あるいは一夜漬け、といいます。一夜漬けの知識は、恐怖の前には無力であり、数週間後の抜き打ちテストに際しては全く武器となり得ません。

 鱗が落ちるキッカケとなる明らかな要素は、「自信」です。

 これは、何でももいい。うんちにひとりで行けた。上手にお箸を使えた。歌を上手に歌えた。洗濯物のタオルを上手に畳めた・・・etc

 ただし、これはあくまでキッカケです。最後、鱗を目からこぼれ落とすためには、ご家族の協力が必要です。

 これが最後の一押しになり、社会発達の獲得の萌出がはじまります。

 「初めてできたこと」の「瞬間を捉えて」「間髪入れずに誉めたたえる」。

 これが鱗を目から落とすコツです。

 「こどもは褒めて育てる」。

 普段からこどもの発想動作を「否定せず」、「さまざまな機会を意識して与え」、「first successを見逃さずに大きく褒めたたえる」。

 これです。

 すると目から鱗がたちどころに脱ち、平和な診察室風景が見られるようになることでしょう。

 世の中の平穏とご家族の健康を祈って、きょうも新型コロナと闘います。

 どなたか、僕の目からウロコ、奪いとってくださーい。

 

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